プロフィール

プロフィールページです。

  • 1947年幸区北加瀬生まれ。
  • 御幸小・中学校、県立川崎高校を経て法政大学第二文学部に入学。
  • 87年から市議6期目、総務委員会委員、水道企業団議員などを歴任。
  • 現在、総務委員会(総務・総合企画・財政局・教育委員会等)委員、議会運営委員会委員、日本共産党市議団長。
    幸区北加瀬在住。

子供のころ

わたしは1947年(昭和22)5月17日、幸区北加瀬に生まれました。子どもの頃は、頭が大きく学生帽をかぶせると当時話題をよんでいた漫画の「フクちゃん」みたいといわれたそうです。

そのころ両親は駄菓子屋とオモチャ屋の兼業みたいなお店を営んでいましたので、戦後の物不足から脱しきれない状況でありながら、毎日の駄菓子には不自由しませんでした。また当時としては物珍しい三輪車を与えられ、無心で遊んでいました。そんな私を外から見れば、何不自由なく育てられているように見えたかもしれません。
後でわかったことですが、私は三輪車の広告塔だったらしいのです。いまではあたりまえのような三輪車も、よほど高価なものだったのでしょう、父の売り上げにはもくろみどおり貢献できなかったようです。
そんなことが積み重なって家業は破綻してしまい、私が5歳の頃、川崎区の大島町を経由して幸区の戸手本町2丁目に引っ越してきました。

大島町時代の唯一の思い出は、住んでいたアパートのすぐ近くに、子どもの感覚からは炭坑のボタ山みたいなガレキの山があって、そこを三輪車で上っていったら頭でっかちの私は重心を失い、後ろ宙返りのように転んでしまったことです。頭が落ちた所に運悪くガラスの破片が捨てられていて、それが刺さった傷跡は今でも頭の片隅に残っています。

戸手本町に転居して

その後、戸手本町に借地をして移り住むことになりました。叔母たちがヨイトマケの歌を歌いながら“ベタ基礎”を打ち、親戚の左官らとともに藁を刻みながら足で土壁を錬っていたのを思い出されます。天井もなく化粧壁もない土壁のままのバラックでした。
その頃のことでした。私がそとで遊んでいると大きな幌付きのトラックがやってきて私の家を訪ねました。私が、贈り物かな?とウキウキと案内すると、おじさんたちが家の中を物色するように眺め回したのち、立ち去っていきました。税務署の差し押さえだったみたいです。父は日本鋼管の臨時工として過酷な三交代勤務でしたし、母も働きに出ていて留守でしたその後しばらくして我が家にも、天井が貼られ、化粧壁がほどこされました。

小学校にあがる前まで福島から母方の祖母が来て面倒をみてくれました。夕方になると「こいつー。こいつー」と私を呼びにくるので、遊び仲間が口まねをして囃し立てるのです。そのことがイヤで祖母に文句を言ったような記憶もおぼろげながらあるのですが、今では亡くなった祖母に申し訳ないことをしたと後悔しています。祖母は母が戻るまでカルタとりをして私と遊んでくれました。そのおかげで入学前に「あいうえお」が全部読み書きできるようになっていました。
御幸小学校の入学前健診には母が働きに出ていたので、隣のおばさんが私を連れて行ってくれました。学校の先生が「名前を書けますか」と言うので、私が「ちくま こういち」とスラスラと書いたことに、おばさんは我が子のことのように喜び、「名前を書けた子は、幼稚園に行っていた子と『こうちゃん』だけだったよ」と自慢げに母に語ったといいます。その頃、幼稚園に通っていた子はごく少数でした。そんなこともあって、隣のおばさんは私の入学祝いに当時としては珍しい革靴を贈ってくれました。

小学校の2年くらいまでは教室が足りなくて午前と午後が週ごとに入れ替わる2部制でした。当時の子供たちはよく群れて遊びました。缶蹴り、メンコ、チャンバラごっご、相撲などです。相撲といえば、まだ家にはテレビがなく、千秋楽にはテレビのある蕎麦屋で30円のかけうどんを食べ、結びの一番まで夢中で見入ったものです。初代若乃花の大ファンでした。高学年になると今度は野球がそれに替わりました。

「山宣」を読んで

御幸中学校ではバレーボール部に入り、3年生のときはハーフセンターでキャプテンをつとめました。県立川崎高校では太鼓が叩きたくて応援団に入りました。

政治的には真っ白だった私が社会に関心をもつようになったのは、中学で一緒に生徒会の役員をした友人が貸してくれた「山宣」を読んでからのことでした。戦前の議会でただひとり治安維持法の改悪に反対し、刺客に殺された山本宣治の伝記的小説です。それから授業をさぼり、図書館にこもって本を読みあさるなど、現代史や資本主義の仕組みなどに関心を深めるようになっていきました。

1967年10月に横浜市役所に勤務することとなり、68年には横浜市従業員労働組合の中(区役所)支部の青年部長、69年本部青年部常任委員、70年中支部執行委員を務めました。組合活動では、自分たちの労働条件の改善を優先する機械的な労働者論ではなく、市民の利益を守ってこそ市民の支持を得て自らの労働条件も前進するという自治体労働者論などを学びました。その活動をする中で、民青同盟に加盟し、日本共産党に入党しました。

1971年の夏、職を辞し民青同盟の専従者となりました。妻とは、その年の10月に結婚することになっていました。専従者になれば給料もかなり下がってしまいますが、そのことを妻はこころよく承諾してくれました。

民青神奈川県委員長を経て民青同盟卒業後、日本共産党の専従者となり、その後、衆院選挙の候補者活動をしていた陶山圭之輔弁護士の秘書、新かながわ社記者、山中郁子参院議員秘書を経験するなかで政治的な視野を広げることができました。

市政に取り組んで

秘書の任務を終え、神奈川県委員会に戻ることとなった私に、幸区の市会議員候補者にという要請がありました。33歳のときでした。1983年の選挙では落選という厳しい試練を味わいました。立候補を決意して6年目の87年に2度目の挑戦で初当選。以後連続5回当選。これまで鹿島田誇線橋の歩道の拡幅などにとりくみ、開始してから何年もかかってやっと実現しました。粘り強いとりくみが求められることもありますが、市民のみなさんの切実な要求は、とりくみの現状をお知らせしながら、市民のみなさんからは現状を打開する知恵も授けていただいたことから実現のはこびとなりました。

現在、新川崎駅周辺のバス路線の改善や駐輪場の増設などにとりくんでいますが、これもみなさんから本当に多くのご意見が寄せられ、みなさんと一体となって住みよい街づくりをすすめているという実感が、私の活動のエネルギーとなっています。今後も忌憚のないご意見をお寄せいただけることを心からお願いいたします。